こんにちは スマイリーです。
気付けば久々の更新です。昨日IBSAのオフ会に参加して楽しみ過ぎたせいで、今日はテンション下がってますが、
こういう時こそ、何かしないと。
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今日は何の日?
1864年 筑波山で挙兵した水戸藩尊攘急進派・天狗党が追討軍に追われて敦賀で降伏。関係者300人以上が斬罪される。
まず、天狗党の乱が何かですよね?
これだけ大きな内乱が起きているのに、僕も歴史の教科書で見た覚えはないですが。
天狗党
発生は徳川御三家の一つ、水戸家での藩主継承問題が原因で出来たようです。
1829年、8代目の水戸藩主、徳川斉脩(とくがわなりのぶ)が亡くなる時、後継者が定められてませんでした。
この時、異母弟に斉昭(なりあき)がいたのですが、正室の子でなかったため、一部の家臣の支持が得られない状況に。
しかし、家臣で、学者でもある藤田東湖らが斉昭を9代藩主として相続させることに成功します。
このおかげで、藤田らは斉昭の登用され、水戸藩内の改革を行います。
まぁ、面白くないのが反対派。藤田らを「一般の人々を軽蔑し、人の批判に対し謙虚でなく狭量で、鼻を高くして偉ぶっている」と言う事で天狗党と呼ぶようになりました。
9代藩主になった斉昭自身も幕府によく思われてなかったようで、一時期失脚し、謹慎までさせられています。
その後、10代藩主徳川慶篤(とくがわよしあつ、徳川慶喜のお兄さんです)の後見として復権して改革を行いますが。
この時に、改革派を中心に尊王攘夷派が形成されています。
この思想は、君主を尊び外敵を斥ける思想で、幕末、特に水戸藩では大きな影響を与えました。
1858年の水戸藩
1858年7月に幕府によって日米修好通商条約が結ばれてしまいますが、これに不満の孝明天皇から水戸藩へ勅書(簡単に言うと天皇の命令)下されたようです。
こうなると天皇の意向ですから、外国を排斥しようとする考えが強くなるのは当然ですね。
またこの頃、将軍の継承問題でも斉昭をはじめとする一橋派は、斉昭の子である一橋慶喜を将軍にしようとして、南紀派である大老の井伊直弼らともめてました。
しかし、安政の大獄で、斉昭も失脚させられ、水戸藩ではそれに対する強い反発が生まれます。
天狗党の中で鎮派・激派に分裂しますが、特に激派は桜田門外の変で井伊直弼を暗殺し、その後も坂下門外の変なども起こしてます。
尊王攘夷復活
水戸藩で尊王攘夷派が再び活動するようになったのは、1862年です。その頃尊王攘夷思想は、特に長州藩(山口県)で強く朝廷と結びついてました。
そこへ、水戸藩が長州藩と結びつくことで、活動が活発になりました。
しかし、八月十八日の政変と呼ばれる権力闘争で長州藩の尊王攘夷派が京都から追い出されてしまうと、京都では退潮傾向に向かいますが、その分水戸藩頼りになり、各地の尊王攘夷派が集まる結果となりました。
その頃、将軍後見職にあった一橋慶喜は、天皇の意向である横浜港を鎖港させようと実行を試み、実家である水戸藩と提携を深めています。
しかし、なかなか実行されなかったことに憤った藤田小四郎(藤田東湖の4男)はついに筑波山で挙兵してしまいます。
筑波山挙兵
藤田小四郎が62人で挙兵します。藩主徳川慶篤は説得を試みますが、次第に勢力を増し、最盛期には1400名にまで膨れ上がってます。
一方、天狗党への反対派は諸生党というグループをつくり、藩内の天狗党・激派を攻撃しています。初めは対応を放置していた幕府も次第に問題視するようになり、結局追討の方針をとります。
ここからは少しややこしいことになります。
江戸の水戸藩邸を掌握した諸生党に対して、今度は天狗党が藩主慶篤に圧力をかけ、諸生党を排除し、再び水戸藩邸を掌握します。(ここには藩主がいるので)
そして藩主慶篤も内乱を治めるようと、名代として水戸家支藩藩主の松平頼徳(まつだいらよりのり)を水戸に向かわせます。
この軍団を大発勢と言い、この中には諸生党によって失脚させられた武田耕雲斎らが加わり3000人ほどの規模になりました。
大発勢は水戸に到着するも、諸生党のいた水戸城に入城を拒まれ、戦闘状態に入ってしまいます。
そして、不運なことに挙兵していた天狗党が加勢したため幕府軍からの討伐の対象になってしまいます。
この為、幕府軍の追撃を受け降伏し、率いていた松平頼徳は責任を取らされ切腹。家臣らも、切腹OR処刑。
殿様まで、切腹させられた。
残った天狗党はと言うと、頼りにしていた一橋慶喜の元へ京都へ向かいますが、逆に慶喜に討伐されることになります。
福井県の敦賀市までたどり着いた一行ですが、遂に投降し武装解除されます。
そして、捕らえられた天狗党員852名のうち352名が処刑されてます。
これにより乱は終息したはずですが、水戸でも天狗党の家族らが処刑されており、その中で、武田金次郎(武田耕雲斎の孫)は遠島されるところ、謹慎で済んでいます。
後に諸生党は戊辰戦争で北越戦争や会津戦争に参加して新政府軍に負けますが、今度は武田金次郎が諸生党の家族まで処刑しており、恨みというのは怖いなと。
初めは思想の違いだったものが、この頃には単なる権力闘争ですね。
この内乱が原因で多くの人材が失われています。
因みに責任を取らされた松平頼徳の家系図に平岡公威(三島由紀夫)を発見。
姪が、三島由紀夫の祖母らしいです。家系図見ると面白いですね。
スマイリー
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