こんばんは スマイリーです。
飽きっぽい性格ですが、4日目の投稿です。 これで3日坊主は回避されました。(笑)
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今日は何の日?
1124年鳥羽天皇の后・中宮璋子に院号宣下され、待賢門院と称する。
正直、この事自体はそこまで重要な歴史上の事件ではないように思います。
ではなぜ?将来この人の子達が関わる事件が発生するからです。
それは保元の乱。
その為には彼女の事から書きます。
待賢門院(藤原璋子/ふじわらのしょうし・たまこ) 1101~1145年
鳥羽天皇の后であり、崇徳天皇・後白河天皇の母。
実父 藤原公実 実母 藤原光子
但し、幼少の頃より、養父として白河天皇に育てられています。
白河天皇(後の法皇)にとってかわいかったのでしょう。
白河法皇を代父として、鳥羽天皇の后として入内させてます。
その後、鳥羽天皇との間には崇徳天皇・後白河天皇をはじめ、5男2女を儲けています。
この頃は、白河法皇が鳥羽天皇より権力を持つ院政をしいてました。
系図を見ると、白河法皇は鳥羽天皇の祖父になります。
しかし、1129年に白河法皇が77歳で亡くなると、鳥羽天皇は藤原得子(美福門院)と言う側妃を寵愛し、彼女との間に後の近衛天皇まで儲けました。
待賢門院の子である崇徳天皇は、美福門院の子である近衛天皇へ譲位させられてしまいます。(それも、父親の鳥羽天皇によって)
腹違いとは言え兄弟なのですが、お気に入りで天皇になってしまった?
こうなると、待賢門院は力を失い、髪を下して仏門に入ることになります。
そして3年後には亡くなっています。
臨終の際には、鳥羽上皇が駆けつけ、大声で泣き叫んだと記録にはあります。
彼女の没後10年には、近衛天皇もなくなり、彼女の子だった後白河天皇が即位してます。
ここで問題が生じます。
以前、近衛天皇に譲位した崇徳上皇がまだいるのですが、弟である後白河天皇との権力争いが勃発してしまうことになるのです。
これが保元の乱。
他の公卿や源氏・平氏などの武士を親子・兄弟喧嘩まで巻き込み、大乱となってしましました。
親子・兄弟で殺しあうなんて、サバイバルレースが激しいですね。
こうして、勝った後白河天皇側と、そこに多くついていた平氏側の力が強くなり、将来平清盛の時代がやってきます。
スマイリー
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