こんばんは スマイリーです。
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折角、書き始めたのに、また2日間にブランク。塾の仲間が盛り上げてるのに、まだ習慣化出来てない。
忘れないうちに書きますか。
今日は何の日?
1185年鎌倉幕府が、源義経追討を名目に諸国に守護・地頭を置くことを後白河法皇に勅許させる。
まだ、源頼朝力が全国に及んでなかったのを権限を強めるため、守護・地頭を設置したものです。
これは政所の別当(長官)大江広元の献策によるものです。(毛利元就の先祖にあたる人)
元々、征夷代将軍というのも東北地方の蝦夷を征伐するためだけの臨時の官職でしかなかったのです。
それが、どんどん変わってきました。それでも、最初は関東の方にしか力が及ばず、承久の変いう天皇方と武家の争いで
天皇方が敗れ、公家も落ちぶれた為、全国に力が及ぶようになりました。
国司・守護・地頭
国司とは古代から中世まで、地方を治める国の行政官です。
よく、時代劇でも、○○の守(守)とか△△の介(すけ)とか、名前の中に出てます。
中央の有力公家が任命され、祭祀・行政・司法・軍事の全ての権限を持ってました。
それに対し守護は鎌倉時代の初めは、国の軍事・警察に関するものだけだったようです。
国司の権限だった行政権を持つことは1232年制定の御成敗式目でも禁じられてました。
当然平安時代から鎌倉時代の初めまでは、まだ、武士が格下のようなもので、公家にとっては、用心棒のようなものに見ていた時代がありましたからね。
なので、1つの国に朝廷が任命した国司と幕府が任命した守護がいることになります。
但し、この頃は守護<国司。
地頭とは荘園(公家・自社の私有地)の中で軍事・徴税・警察・行政権を持ち・土地・百姓を管理します。
こちらも幕府で有力御家人の中から選ばれました。
初めの頃は地頭の方が中心だったのですが、時代とともに守護の権限が強化され、地頭を支配するようになると、
室町時代には守護大名となっていきます。
逆に国司は江戸時代には名目上のものとなってます。
それでも明治時代に廃止されるまでは続いていたんですね。
国司の事を調べていたとき、興味を引いたのは、地方の国ごとに等級があり、4つに分かれていました。
(大国・上国・中国・下国の順)
大国の方から官位の高い人が順に選ばれていたが、和泉の国(今の大阪府南部)が下国だったこと。
大体京都にも近く、畿内なのに下国の評価なのが少々意外でした。
あまりなりたくない国の国司だったのでしょうか。
スマイリー
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