こんにちは スマイリーです。
寒くなると手が動かなくなりますね。つい手が止まった。
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1日遅れの今日は何の日?
1557年毛利元就が毛利隆元・吉川元春・小早川隆景に対して14ヶ条の遺訓を記す。(三子教訓状)
三子教訓状と書くと、馴染みがないが、後に「三本の矢」の話として伝えられる。
これは勝栄寺という寺で書かれ、現在重要文化財に指定されており、毛利博物館にあります。
内容は簡単に言うと、自分が死んだ後も兄弟仲良く、毛利家を盛り立ててくれと言う遺言のようなもの。
昔は親子・兄弟でも殺し合いで生き抜いてきてるので、余程心配だったのかもしれません。
因みに毛利隆元・吉川元春・小早川隆景の3人に宛てていますが、子供は3人ではありません。
3人は正室(妙玖)の子と言うだけで。
男子だけで10人はいますからね。これだけいると争いの種は多そうです。
元就が心配したのは、毛利家の将来の事でしょう。
吉川元春や小早川隆景に比べると、ちょっと存在が薄い長男の毛利隆元。
弟たちにその気があれば、毛利一族の長になっていたかもしれない。
毛利元就自身も次男であり、本来なら家を継ぐこともなかったかもしれませんが、
兄と甥が早くなくなったので家督を継いでます。
その際、弟一派を倒して。
そういう経験もあったからでしょうか。
実際2人の弟たちは、本家を支えてくれたので、毛利家が長く残ったとも言えます。
あと、毛利元就と言うとよく3本の矢の話が出ますが、これは後世の創作です。
元就が亡くなる時、子供たちを集めて、
「1本の矢では簡単に折れるが、多数の矢を束ねると容易に折れないので、皆がよく心を一つにすれば毛利家が破られることはない」と教えたとされており、
これは江戸時代の文献に残っています。
長男の隆元は、元就よりだいぶ前に亡くなってますから、史実ではなかったということですね。
毛利元就(1497~1571)
安芸(広島県)の国人領主から中国地方の大名にまでなった人物。
先祖は大江氏 鎌倉時代に源頼朝の下で政所の初代別当(長官)になった大江広元がいる。
衣にある家紋がどうしてもスマイリーマークに見えてしまう。(笑)
スマイリー
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