こんにちは スマイリーです。
12月に入って色々と忙しいんではないですかね?
僕も生活にが忙しく、なかなか更新できないけど、うちの塾は凄い。
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今日は何の日?
1358年足利義詮が室町幕府第2代将軍に就任。
今日もまたマイナーな。(笑)
そもそも足利義詮って読めますかね?(あしかが よしあきら)
(1330年7月4日ー1367年12月28日) 足利幕府2代将軍 父は足利尊氏。幼名は千寿王。
この人の事って書くこと少ない。
なので、まず名前から。
義詮の「義」と言うのは源氏でよく使われてますね。当然源氏の流れである足利氏もそのあたりを意識してるのかな。
その後の将軍も全て「義」がついてます。(3代義満~15代義昭まで)
あと、この義詮には実は兄が2人居ました。竹若丸と直冬。
どちらも正室の子ではないみたいですが。
竹若丸は名前の通り、「丸」と付いており、子供の頃亡くなっています。
この頃、足利尊氏が、後醍醐天皇に味方して、北条氏を討とうとした事から、北条氏に殺されてます。
直冬は父、尊氏に自分の子と認められなかったらしく、尊氏の弟の直義の養子になってます。だから、「直」と名前についてるでしょ。
やはり、正室の子を重視したんですね。
父、尊氏が京都で北条氏の六波羅探題を攻略している頃、鎌倉で人質としてとどめ置かれていた千寿王(義詮)は、鎌倉討伐の総大将として担がれてます。
何とか北条氏を滅ぼし、後醍醐天皇の時代になっても政治が安定しませんでした。
やはり、高貴でも力のない朝廷や公家には武士は従いたくない、こんな時代だったのでしょう。
最終的に、足利尊氏は離反してしまい、征夷代将軍になってしまします。
本来なら、後醍醐天皇の方が正統だと思いますが、公家中心の朝廷に対しては、有力な武士の支持が少ない。
同じ、源氏の系統の新田氏、楠木氏、名和氏くらいですか。
そのうち、吉野(奈良県)に南朝をを置くことになります。
それに比べたら足利氏は鎌倉時代でも名族として、一目置かれてました。
こんな事で南北朝時代が始まってしまいましたから、義詮の時代も征夷代将軍になっても安定してません。
一時期は、足利氏内での争いもあり、尊氏・義詮VS直義・直冬。
この時は直義側が南朝と結んで京都を攻めた時期もあり、一度は義詮も京都を追われてます。
かと思うと、逆に尊氏側が南朝と結んだりして兄弟の関係がややこしいですね。
足利尊氏も天皇から離反してるので、賊軍となるのを恐れたのか京都を回復し天皇を立ててます(北朝)
そのうち直義側が勢力を失うと、北朝と南朝の争いになります。
しかしまた、幕府内での権力争いが勃発。
幕府内の有力武将が南朝に降伏したりして、人材の少なかった南朝が生き延びる原因となってますね。
これほど、一族内での争うが多かったのに、正室との子(この子も父と同じ名前の千寿王)が早世してしまい、跡継ぎになかなか恵まれなかったらしく、多くの女性と交わり、それは原因で命を縮めたという説もあるそう。(38歳で亡くなってます。)
だから、3代将軍の義満は嫡男でも、正室の子でもなかったんですね。初めて知りました。
義詮が亡くなる時、楠木正行(楠木正成の嫡男・南朝の武将)の葬られている京都の宝筐院に一緒に眠らせてほしいと遺言して正行の墓の隣に墓が建てられたそう。
敵同士にも関わらず、若くして戦死した正行を敬愛してたんですね。
死後、従一位左大臣の位を受けてます。
スマイリー
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